世界放浪記 ボスニア・ヘルツェゴビナ

【Day117-2】サラエボのフリーウォーキングツアーに参加!ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争について学ぶ

 

*****2023.4.8(土)*****

 

※Day117は、パート1とパート2に分けています。この記事は、パート2です。

※今日の記事は、文字多めです。

 

 

この日の午後は、Free Walking Tour(フリーウォーキングツアー)に参加しました。

Free Walking Tourは、ヨーロッパではとてもメジャー。

参加費無料(チップを支払う)で、現地のツアーガイドが徒歩で1〜2時間ほど街を歩きながら、街や観光スポットのことについて解説してくれるツアーです。

 

私は自分のペースで観光したいので、普段はこの手のツアーには参加しないのですが……紛争のことは、現地の人に話を聞くしかないよな。

というわけで、今回初めてFree Walking Tourに参加してみることに。

 

 

今回参加したのは、Nenoさんという名前のガイドさんが主催する「War scars & new times free Sarajevo walking tour」という題名のツアー。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に関する内容を中心に扱うツアーです。

16時より、ツアー開始。この日のツアー参加者は、12人ほどでした。

 

※ツアー情報は、記事の最後にまとめておきます。

 

 

まずは、イントロダクション。

ガイドのNenoさん自身のことについて語られる。

 

彼は、9〜12歳の子供の頃に、サラエボで紛争を経験した。

彼の母親はムスリム、父親は正教会のセルビア人。でも、両親はどちらもモスクや教会には通っておらず、強い信仰心があるわけではなかった。Nenoさん自身は、"non-religious"だという。

 

そもそもボスニア・ヘルツェゴビナでは、

  • セルビア人=正教会
  • クロアチア人=ローマ・カトリック
  • ボシュニャク人=イスラム教

という風に、宗教によってその人のアイデンティティーがカテゴライズされる

そして、”ボスニア・ヘルツェゴビナ人”というカテゴリーは存在しない。

 

Nenoさんは、生まれも育ちもサラエボ

なのに、正教会、ローマ・カトリック、イスラム教、いずれも信仰していないために、彼の民族カテゴリーは”Others(その他)”として分類されてしまうのだそう。

例えば、国勢調査。彼はサラエボで生まれ育ったのに、Ethnic(民族)の欄で”Others(その他)”を選ばなければならない。

 

なんて話だ。

まだイントロダクションなのに、この時点で衝撃を受けたよね。

国が成立してから約30年が経った現在でも、”ボスニア・ヘルツェゴビナ人”という意識が存在しないとは。

この国、想像以上にヤベエかも。

 

 

サラエボ

昔、郵便局だった建物の前へ。

 

1992年に紛争が始まり、サラエボの街はセルビア人勢力によって包囲された。

セルビア人勢力が最初にターゲットにしたのが、この郵便局だったという。

理由はもちろん、通信・連絡手段を断つため。

 

サラエボ

モスタルでも紛争の痕を見てきたように、この当時、サラエボ以外の街でも戦闘が繰り広げられていたんだけど。

サラエボの戦闘は、他の地域の戦闘とは少し異なっていた。

何が違ったかというと、セルビア人勢力側にとっては包囲戦、サラエボ市民たちにとっては籠城戦だったということ。

セルビア人勢力の作戦は、街を包囲して逃げ場をなくし、長期に渡ってじわじわと砲撃を加えて、街に籠る市民たちの頭をイカれさせる心理攻撃だった。

 

サラエボ

郵便局は破壊された。電話も使えない。今のように携帯もない時代だったわけで。

じゃあ、街の人はどうやって外と連絡を取ったのか。

実は、赤十字のマークがついた書類や荷物を利用していたんだって。

赤十字は中立だから、セルビア勢力は赤十字に対しては攻撃を加えない。なので、赤十字が物資を他の都市に運ぶ時に、一緒に手紙も積んでもらっていたんだって。

届くのには、1〜2週間ほどかかったらしいけど。それでも、何の伝達手段もないよりマシだって言ってた。

 

 

サラエボ

ミリャツカ川に吊るされたモニュメント

これは、レジスタンスを意味するらしい。市民の抵抗の意志を示すために、わざとセルビア人勢力の目に留まりやすい川の上に設置したんだって。

 

 

サラエボ

サラエボ

サラエボの建物に残る、丸い痕。

これ、銃弾と思いがちだけど……実は銃弾ではなくて、グレネードやボムが破裂した時に飛び散った破片の痕らしい。

 

サラエボ

なぜ紛争から30年経とうとする現在も、これらの建物を修復しないのか。

紛争を忘れないため、ではない。単純に、金がないかららしい。

街を復興する順番は、最初に、旧市街の歴史的に重要な建物。次に、新市街のオーストリアの風の街並み。そして、政治的に重要な建物。その後、金が余れば一般の住宅。という順みたいで。

一般の住宅を修理するほどの金が余らないんだってさ。

 

サラエボ

この花のマークは、1995年に起きたスレブレニツァの虐殺という事件を忘れないためのシンボル。

私も、この説明を聞いて初めてこの虐殺のことを知ったんだけど……

セルビア人勢力によって、スレブレニツァという街の約8000人ものボシュニャク人が殺害されたそう。のちにハーグの国際裁判にもかけられて、この事件は”ジェノサイド”だと認定されている。

 

この虐殺が起きたのは、1995年7月。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が終結したのは1995年12月だから、紛争が終わる直前に起きた事件だった。

実は、NATOはスレブレニツァで虐殺が行なわれているという情報を事前に得ていたのだが、わざと虐殺を止めずに黙認した、という説もあるらしい。

NATOがこの紛争に介入するための理由作りのために、この事件が利用されたのだとか……(こんな話、書いていいのかな? 私、消されないよね?w)

 

例えば、どこかで戦争が起きたとして。「私の国は、中立を保ちます」と宣言して何も行動を起こさなかった場合。

それは、戦争を黙認するという側(サイドに立っているわけで。たとえ中立を選んだとしても、それは”Take side”してるんだよ、とNenoさんは言っていた。

これ、かなり印象に残った言葉だったな。戦争を経験した人じゃないと、なかなかこの考え方は出てこないと思う。

 

ちなみにだけど、一部のセルビア人は、未だにこのマークを見ると怒るらしい。

セルビア側は、「虐殺なんてなかった」と主張しているからね。

当然、セルビア人の学校の教科書には、この虐殺については何も書かれていない。セルビアの子供たちは、セルビアが過去に虐殺をしたという歴史を知らずに育っていく。

 

少し脱線するけど、ボスニア・ヘルツェゴビナの学校は、民族ごとに分かれているらしい。

当然、学校ごとに教育内容も違うわけで。各民族に都合の良い歴史教育をしてるんだろうなぁと思う。

この教育構造、かなり危ういよね。紛争を知らない世代の子たちが大人になった時、この国はどうなってしまうのだろうか。

 

 

サラエボ

ちょっと見づらいけど、子供の像(Memorijal za djecu poginuo u opsadi)

土台のコンクリートみたいな部分は、銃弾をかき集めて溶かして固めて作られたらしい。

 

セルビア人側は、子供も容赦無く攻撃対象にした。

でも、やっぱり兵士も人間だから、子供を撃つことを躊躇う者もいる。そこで、どうしたかというと……世界中の金持ちから、スナイパーを募ったんだってさ。

世の中には、頭がイカれている金持ちがいるらしい。人を撃ちたい、殺したいっていう欲求を満たしたい人もいるんだってさ。

そういう金持ちが、セルビアにわざわざ金を支払って、サラエボで人を撃ったみたい。子供を仕留めたら料金が上がるとか、そういうのもあったみたい。

 

 

サラエボ

ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領府

 

ボスニア・ヘルツェゴビナには、3人の大統領がいる。

セルビア人が選出した大統領。クロアチア人が選出した大統領。そして、ボシュニャク人が選出した大統領。

この大統領が、定期的にローテーションして国のトップになるんだって。

 

じゃあ、Nenoさんのように”Others(その他)”のカテゴリーの人たちは、政治に参加する権利があるのかって話だけど……

投票する権利はあるみたい。でも、大統領には立候補できないんだって。ユダヤ人やロマの人たちも、ボスニア・ヘルツェゴビナでは大統領にはなれない。

この仕組みは、ちゃんと憲法に書かれているらしい。

 

この話、マジで衝撃だったわ。

ボスニア・ヘルツェゴビナの政治の仕組みが、イスラム教、正教会、ローマ・カトリックのいずれかの宗教を信仰していることを前提につくられているのよね。

こんな国が、今もヨーロッパに存在しているとは。

 

 

サラエボ

この大通りが、有名なスナイパー通り

 

サラエボ

向かい側に広がる丘の、黄色い家の背後にあるユダヤ人の墓場あたりに、スナイパーが潜んでいたんだって。

この道を歩く市民たちを、この丘からスナイパーが撃った。

 

でも、紛争中もサラエボの街中では人々が生活していたわけで。

じゃあ、人々はどうやって危険なスナイパー通りを移動したのか。

実は、UN(国連)の車を利用していたんだって。セルビア人勢力は、UNの車には攻撃しない。だから、UNの車の背後に隠れて、こっそり移動したんだってさ。

UNの車も協力的で、わざとゆっくり走って、市民の移動を助けてあげていたらしい。

 

サラエボ

スナイパー通りにある黄色い建物が、ホリデーイン(現在はホテル・ホリデー)。

ガイドさんが見せてくれた写真の通り、スナイパー通りはホリデーインをきれいに残して更地になった。

 

ホリデーインのみが攻撃されずに残ったのは、そこに外国人ジャーナリストたちが滞在していたから。

セルビアの敵は、あくまでサラエボ市民。外国を敵に回すつもりはなかったので、このホテルだけは避けて攻撃を加えた。

それにしても、こんなにピンポイントに建物を残すことができるとは。

 

サラエボ

サラエボ

Vilsonovo šetališteという通りのあたりが、攻撃が激しかった最前線だった。

今も建物には、たくさんの銃弾や砲撃の跡が残っている。

 

サラエボ

Vilsonovo šetališteの川を挟んで対岸のあたりが、最も被害が酷かったエリア。

 

サラエボ

最後に訪れた場所は、缶詰のモニュメント

紛争中にUNが支給してくれたビーフ缶を再現した記念碑だって。

正直、臭くて不味くて最悪だったらしい。他に選べるものがないから、しょうがなく食べたらしいけど。

 

 

Nenoさんは最後に、こう言った。

今回のツアーについて発信するのは大歓迎だし、ぜひ宣伝してくれ、と。

そして、サラエボについて、なるべく明るく宣伝してほしい、と。

 

ボスニアには”紛争”という暗い歴史があるけれど、それはクロアチアも同じで。

でも、クロアチアはそのイメージを払拭して、今や世界中から人々が集まる人気観光地となった。

ボスニアの暗い部分だけを取り上げられて、「危ないところなんでしょ?」と思われるのではなく、もっとポジティブな意味で注目される観光地になることを願っている。

だから、そういう風にボスニアの魅力を宣伝してください。だってさ。

 

 

今回のツアーに参加して感じたことを正直に述べると……

ボスニア・ヘルツェゴビナ、想像していた100倍危うい国だわ。

対外的には、3つの民族(宗教)が一応ひとつの国としてまとまっているように見えるけど。政治体制や教育、居住区など、実際の中身は民族によってキッパリと分かれている。

なんだか、今のボスニア・ヘルツェゴビナは仮初の平和だなと。

 

最も厄介だなと思ったのは、やっぱり教育だよね。

民族(宗教)ごとに異なる学校に通って異なる歴史教育を受けている時点で、まず他民族に歩み寄ろうとする姿勢はゼロ

これじゃあ、紛争を経験していない若い世代の人たちが、次の引き金を引きかねないな、と思ったよ。

私が生きている間に、この地でもう一度争いが起きるかもしれないな、という何となく嫌な予感はする。

 

でもさ、これって日本にとっても他人事ではない話だよね。

日本が第二次世界大戦中に、アジア各国に対して行なってきた様々な行為の全てを包み隠さずに義務教育で教えているかというと、たぶん答えは”ノー”なわけで。

歴史教育って、とても大事で難しい課題だな、と改めて認識した。

 

まあ、とにもくにも。

たとえ今の状況が”仮初の平和”だったとしても、今こうして私はサラエボを訪れることができているわけで。

タイミングに恵まれたなぁ、と思う。バルカン半島を平和に旅行できていることに感謝したい。

 

 

今回参加したサラエボのFree Walking Tourは、こちらのサイトから確認できます。

人数に限りがあるので、予約必須。私は、Whatsappで予約を入れました。

私が参加したのは、「War scars & new times free Sarajevo walking tour」という題名のツアー。他にも、新市街や旧市街を中心に巡るツアーも開催されています。

 

Nenoさんは、紛争の話からボスニアの政治体制まで、かなり分かりやすく噛み砕いて説明してくれました。

この記事に書いた内容は、ごく一部。

もしサラエボを訪れる機会があったら、このツアーに参加して、直接ガイドさんの話を聞きながら、ボスニア・ヘルツェゴビナのことを知ってほしいな。

 

 

明日も引き続き、サラエボ観光です!

 

 

※ 為替レートは、当時のもの。1円単位は丸めています。

 

 

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